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十三の由来と歴史

 十三の歴史

現在の十三の地は、古、摂津国西成郡小島村といい、堀村と西の境を接していました。

 阪急電鉄の十三駅は、当初、新淀川の北岸の十三駅と南岸の新淀川駅とを合併して大正5年、現在地に移されました。大正14年、この地区の大阪市に編入せられ、東淀川区となり、駅より東(旧小島村)を十三東之町、駅より西(旧堀村)を十三西之町と改称しました。

 「十三」の名称は天正3年(1575)3月、大坂石山の一向宗徒と伊丹の荒木村重が、「十三の渡し」にて戦うと、「大谷本願寺通記」に見えるのを初見とします。当時の「十三の渡し」は中津川(現新淀川)の南岸より北岸にわたり、加島、尼崎へ通ずる中国街道の要衝で、南岸にあった成小路村の支村に十三村があり、旅籠、馬宿等があり、殷賑を極めました。「十三の渡し」を中心に栄えた地域も、明治30年より始まり、6か年の歳月を費やして行われたる中津川の改修により水没しました。「十三」の発祥の地は消失しましたが、その地名のみが今に伝わっています。





 十三の由来について

十三の地名の由来につき諸説がありますが、いまだに不明です。

十三番目の渡し説

 昔の十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目であるので「十三」という説。これを裏付けるように、北河内郡庭窪村とその北岸、三島郡味生村を結ぶところに七番の渡しが残っており、これから考えて十三番目の渡しが十三の渡しであり、従って十三もその十三番目から由来するという。


重蔵(人名)説

 南岸の中津の南浜に重蔵(じゅうぞう)という長者がいて、加島へ遊びに行くとき、ちょうど十三の渡し付近に舟をつないでおいたので、重蔵の舟つなぎ場から「十三」になったといわれている。その当時、加島や江口は非常に栄えたところで遊女屋や料理屋があり盛り場であった。


十三塚説

 柳田国男著の「十三塚考」によると、戦国時代の武将が戦死すると、その場で一族郎党、妻子すべてがともに死んだ。それを土地の人々が哀れんで祭ったのが十三塚というものである。これは全国にもあり、十三付近も戦国時代は非常に多くの戦乱の場となり、戦死者も出たので十三塚と関係があるのではないか。十三塚の塚を省いて十三となったかもしれない。


条里制の十三条説

 天坊幸彦著の「古代浪速の歴史地理の研究」によると十三の地名は、条里制にもとづく十三条の条が外されたものであるといわれる。
 四天王寺に御手印縁起(聖徳太子の自作と称し、太子の手印を捺されたもので、平安時代の頃の作か)があり、四天王寺の寺領が書かれている。その中で於勢地は「東生郡三条一里、二里、四条二里、三里、四里」、鵄田地は「住吉郡十一条二里、十二条一里、西成郡一条二里」と田積を挙げている。この中で鵄田は、今の西成の飛田であることは明らかで、この地を西成郡一条二里と定めて、北へ数えていく。そして、北へ数えて十三条が今の十三の辺りであろうという。


つつみ(堤)説

 池田末則氏が「御所市史」等の中で、十三は「つつみ」の義であるとしている。
「(御所市にある)南十三はおそらく「ツツミ」の義であろう。『和名鈔』の忍海郡内の郷名に「津積」があるが、このジュウソは十三を音読したもので、十をツツ、三をミと訓む。『玉勝間』(本居宣長著)十三巻に「十をつつといふ事」と題し、「文選の古き訓に十をツツとよめり、下のつは一つ二つなどのつなり、上のつは、とと通う音なれば、即ち十なり、(攻略)と見え、十三はおそらく津積で、いわゆるいっかき川である。葛城川の長堤に所在するために起った地名であろう。大阪市内の十三も淀川の堤であった。」(ザ淀川、辻井隆昭氏寄稿「十三は「つつみ(堤)」から」参照)


富島(十三島)説

 富島(とみしま)という地名が中津にある。南浜の辺りに昔、富島の庄があり、現在、富島神社がある。富島の富(とみ)が十三(とみ)と訛ったものか。





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